追悼 野村正樹先生
今日は3月13日。1年前に66歳でお亡くなりになられた、野村正樹先生のお話です。
昨年12月初旬のある日の事。色々あった2011年も師走を迎え、喪中はがきが送られてくるシーズンとなった。亡くなられた方が高齢の方だったりすると、介護も大変だったろうなあと感じてしまうのは、どうしても自分の経験と重ねてしまうからだろう。そんな中、また1通の喪中はがきが到着した。何気なく差出人の名前を見ると、以前お世話になったことがある、作家の野村正樹先生の奥様だった。亡くなった方はご主人。野村正樹先生ご本人だった。
私は、このはがきを見て、言葉を失ってしまった。先生御自身がお亡くなりになっていたことを、このはがきが到着するまで全く知らなかった。早速、野村先生のホームページを見ると、遺族の方からのメッセージが添えられていた。震災の2日後に当たる3月13日、肺がんのため、66歳で旅立ってしまったのだ。
そもそも、先生との出会いは、2006年に遡ります。東京鉄道見たまま日誌の管理人であるSATO氏から、野村正樹先生が鉄道関係の書籍を出版するので、編集を手伝ってほしいとの依頼を受けた。この時、一緒に呼ばれたのが、Kaz-T氏とマニはら氏。計4人で、編集協力をした。そして、たまたま内容を精査した結果、近鉄特急の車両の写真が、本文と異なっていたため、関西在住の痛勤形酷電氏に撮影を要請。最終的には、この5人で、野村先生の著書の編集を担当した。今思うと、このメンバーで一つのことをやり遂げたこと自体が、奇跡的なことなのかもしれない。
後日、著書の完成と合わせて、打ち上げ会が開かれ、この時、初めて野村先生と対面した。作家の先生という事で、気難しい方かと思ったが、実際にお会いしてみると、とても気さくな方で、すぐに打ち解けることができた。そして、この時、編集協力をした5人は、「電車力向上委員会」として、著書の最後に名前が載ることになった。私にとっては、自分の名前が、初めて書籍に載った瞬間であった。
その後も、野村先生とは、年賀状のやり取りや、新刊発売記念パーティにも出席したりして、親交を深めていた。最後に、先生とお会いしたのは、2009年3月14日、有楽町駅へ、最後の「富士・はやぶさ」を出迎えに行った時のことであった。大勢の鉄道ファンが集まった、有楽町駅のホームで、偶然にも先生をお見かけしご挨拶をした。先生も、「富士・はやぶさ」の最終列車の取材にいらしていたようで、列車が遅れていたこともあり、少し雑談をさせてもらった。先生から、私のブログについて、「なかなか良い文章書いてるねえ。」と言われた。単なるお世辞だろうけど、作家の先生から、こんなことを言われてとても嬉しかった事が、今でも忘れられない。と言うか、先生からのこの言葉が、まさか最後の会話になってしまうだなんて、喪中はがきが到着するまでは、夢にも思っていなかった。
66歳で旅立ってしまった野村先生。まだまだやりたいこと、書きたかったことも多かったと思います。先生の最後の言葉を励みに、これからもブログを続けていこうと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。先生のご冥福を心よりお祈りいたします。
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コメント
野村先生の死は私も先日知りました。
何となくウソペディア(wikipedia)で先生の項目を開くと、生没年の表記に「右側」にも日付があり、それも昨年3月になっているではありませんか!!
私は先生の事を推理作家と言うより鉄道旅行家としての側面しか存じ上げませんが、TOMO様の書き込みを見る限り、鉄道に対する愛情は我々と同じかそれ以上におもちの方だったとお見受けし、哀悼の念を持って先生のご本を読み返している次第です。
不肖者ですが、先生のご冥福を心よりお祈り致します。
長文失礼しました。
投稿: 烏山鉄夫 | 2012/03/19 20:46