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親友の死

今週は、私にとって、とても辛い1週間でありました。

6月12日、私と27年間の付き合いである親友のYU君がこの世を去りました。享年38歳。彼とは、小学校5年生の時に同じクラスになってからの付き合いでした。お互い、家も近所、趣味も同じと言う事で、最初は衝突した事も有りましたが、だんだん意気投合し、良き相棒となりました。彼とは、何でも言える間柄だった事も有り、鉄道関係の事以外でも、時にはお互いの学校生活での不満や好きな女性の話なんかもしました。

そんな彼を今から20年前、白血病と言う病が襲います。それでも、彼は生きる為に、あらゆる手段を試し、病と闘ってきました。入退院を繰り返し、臍帯血治療や骨髄移植もしました。私も、何度か見舞いに行きましたが、その都度、励ましに言った筈が、逆に励まされて帰ってくる。自分の事より他人の事を優先。そんな奴でした。

実は、今年に入ってからも、本人にとっては3度目(後日お母さまから聞いて知りました)となる骨髄移植を受ける為、2月末から入院していました。本人からも、「忙しいだろうから、見舞いは良いよ」なんてメールも来ていました。私も、本業の合間に、怪我の治療の為に通院していた事も有り、「落ち着いたら見舞いに行くよ。」と返信し、彼とはメールのやり取りを繰り返していました。そして、3月末に骨髄移植は無事終了。経過も良好とのことで、私も、ホッとしていたのでした。本人曰く、6月までは入院しているとの事でしたので、そろそろ見舞いに行ってみるか?と思っていましたが・・・

6月9日の夜、彼のお母さんからの連絡により、状況が一変しました。

「YUね、もう植物状態になってしまったのよ。」

お母さんの涙ながらの声に、私も言葉を失ってしまいました。意識は無いけど、声は聞こえているのか、自分が知っている人が来ると、表情が穏やかになる。お母さんから、そう聞き、翌日、西武鉄道の武蔵丘検修場のイベント会場を早めに切り上げ、彼が入院する病院へと向かいました。闘病生活で、趣味もままならなかった彼に、自分が見てきた事を話してやろう。それは一方通行になってしまうけど、今の私にできるのは、これが精いっぱいの事。きっと喜んでくれるだろう。病室に入るまではそう思っていました。しかし、いざ部屋に入り、人工呼吸器が繋がった彼の顔を見ると、全く言葉が出ませんでした。出てくる言葉は、彼との思い出話ばかり。

「親父の後を継ぎ、俺が事業主になった時は、お前が税金の計算をしてくれ。」って俺に言ったじゃないか。一度もしないまま終わってしまうなんて・・・ 部屋にいたお母さんやお兄さんに、そんな事を話していました。唯一、彼の顔を見て話しかけた言葉は、「また、明日来るからな。」だけでした。

そして翌日。約束通り、文京区内での仕事を終えた私は、その足で彼が入院している大学病院へと向かいます。病院に到着したのは、18時頃のことでした。6階の部屋へと向かうと、部屋にはお母さんがいました。ベットに寝ている彼を見て、前日とは明らかに状況が違う事が解りました。もう体温も34度台までに下がっており、湯たんぽで体を温めていると言う状況でした。

「早く楽にさせてやりたい。でも、『俺は生きたいんだ』って言った一言が私は忘れられない。」

彼のお母さんの一言に、私も言葉を失ってしまいました。でも、お母さんを励まさなくては・・・そう思い、一時間、昔話をしました。そして、おそらく、親友の生きている姿を見るのは、この日が最後になる。私もそう感じて、お母さんには、「明日は1日事務所にいますから、何かあったら連絡してください。」とだけ伝え、帰りました。

翌日、彼のお姉さんから、彼が亡くなったと言う連絡を受けました。前日の様子から覚悟は出来ていましたが、一報を受けた時は、暫く呆然としてしまいました。

そして、我に帰り、彼の最期を見送ってやりたい。そう思い、今後のスケジュールを聞くと、通夜・告別式は身内だけで済ますとの事。運良く連絡が取れた同級生2人と、14日の朝、出棺の時に門送りをさせてもらう事にしました。

出棺前、お母さんから「顔を見てやって」と言われ、棺の傍へ向かいました。彼の顔を見て、出た言葉は「本当に良く頑張ったな」でした。

親友YUは、これからも、私の心の中で生き続けます。だから、別れの言葉は言いません。これからは、趣味活動の時は、彼を連れていこう。そう思っています。実は、彼が亡くなった翌日、オオゼキタクさんから、バー銀座パノラマ渋谷店で、鉄道模型を走らせながら呑むイベントのお誘いが有りました。当初は、こんな時に行くのもどうかなと思っていたのですが、「あいつも、きっとこんな店に行ってみたかったのではないか?」そう思って、彼が好きそうな車両の模型を持参して参加しました。店のオーナーも、Twitterでフォローしていただいている事も有り、事情を説明すると、彼の分のカクテルも用意してくれました。そっと、献杯をして、彼と一緒に、イベントを楽しみました。(当日の模様は、オオゼキタクさんのブログをご覧ください。)

Twitterのフォロワーの皆様には、今回の事で、励ましのツイートも頂き、本当に感謝しています。当初は、「もっと自分がしてやれた事が有ったんじゃないか?」そんな事を考え、悩んでいましたが、これからは、亡くなった親友の分まで、精一杯生きて、彼と一緒にこの趣味を楽しむ事にします。

今回は、彼が病と闘いながら、必死に生きてきた証として、この記事を書く事にしました。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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コメント

TOMOさん、ご無沙汰しております。
まずはご友人の逝去にお悔み申し上げます。

確かにこの年齢になると、不幸なことも起こる時期になりますよね。私には、まだ友人の不幸はありませんが、自分の祖父母をここ5年で亡くしています。また白血病という事で、これまた急性のタイプだったのでしょうか。
亡くなられたご友人のことは忘れないであげてください。それが、一番の供養だと思います。

投稿: 横山 正典 | 2012/06/17 23:47

コメントはしないつもりでいましたが、書かせていただきます。
YU氏とは、貴殿を通じて知り合い、貴殿はご存知なかったかもしれませんが、アマチュア無線のことでいろいろ教えていただきました。
ご病気のことは存知あげておりましたが、その後連絡を取ることもなく現在にいたりました。
すっかりお元気になられていると思っていただけにびっくりしております。
実は私も昔、鉄仲間の友人を、YU氏と同じくらいの年齢で、病気で失っております。彼の足跡を確認するために遠路出かけたこともあります。
ですから貴殿のお気持ちがわかるような気がいたします。今の仕事柄、高齢者の死というのは結構向き合うことが多いのですが、若い方の死というのは辛いですね。
貴殿の中でYU氏はこれからも生き続けていくことでしょう。

投稿: つのすけ | 2012/06/18 00:36

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